織田信長、本能寺で死す。
既存の価値観をぶち壊し、新しい世界を創りあげんとした織田信長は、49歳の若さで死んでしまったでござる。
昔からとりあげられているミステリーではござるが...
前回の続き...
1570年の信長包囲網の危機を乗り切った信長であるが、15代征夷大将軍足利義昭(よしあき)は相も変わらず各方面へと手紙を送りまっくていたでござる。
翌1571年になってるとまた、浅井朝倉軍・三好三人衆・石山本願寺・延暦寺・六角氏などが反織田勢として動き出す。
しかし信長。前年は浅井長政の予想外の裏切りから後手後手と回って四苦八苦したが、今回は調略なども交えて、しっかりと対策を行った。
浅井長政の重臣を調略し、近江(滋賀県)南部の支配を固めることに成功。
そして北伊勢の長島一向一揆を攻撃。
前回からの続き
石田三成挙兵の報を聞き、小山評定を経て東軍の諸将は、三成討伐に西へと向かったでござる。
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前回の続きでござる。
さぁて、加賀前田家には逃げられた徳川家康の次のターゲットは、会津120万石の上杉景勝(かげかつ)。
上杉景勝は、あの武田信玄のライバルであり越後の虎と恐れられた上杉謙信(けんしん)の甥であり、養子となって家督を継いだ人物でござる。
天下分け目の決戦、として最も有名な合戦の一つでござろう。
東軍・徳川家康と西軍・石田三成の合戦である。
そもそも、なぜ250万石の大大名である徳川家康と、19万石しかない石田三成が戦うこととなったのでござろうか。
簡単にお話したいと思うでござる。
主戦場:尾張国田楽狭間
対戦者:織田信長 VS 今川義元
駿河(いまの静岡県辺り)の今川義元が上洛する!
織田家に衝撃のニュースが走った。
上洛するには織田が治める尾張(愛知県辺り)を通ることであり、今川と織田は仲が悪い。
どうぞどうぞお通りください、という訳にはいかない。