面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

山崎の合戦 (1582年6月13日)

明智光秀、謀叛。
織田信長、本能寺で死す。
 
1582年6月2日(旧暦)のことである。
 
天下統一まであと一歩。
既存の価値観をぶち壊し、新しい世界を創りあげんとした織田信長は、49歳の若さで死んでしまったでござる。
 
なぜ明智光秀は謀反を起こしたのか?
昔からとりあげられているミステリーではござるが...

 信長怨恨説・黒幕扇動説、天下野望説などなど色々な説があるでござるが、拙者が思う説は、『魔が差した』だと思っているでござる。

 

ミステリーとしては全く面白くない回答でござるが、実際はそんなところではないかなと。

 

もちろん信長に対する不満や恨みはあったでござろう。超恐い上司ですから。一歩間違えれば追放、下手すりゃ死刑でござるからなぁ。信長の部下はみんなストレスかかえていたでござろうなぁ。

 

そんな時に。
千載一遇とも言える時が光秀に来たのでござるよ。
柴田勝家・滝川一益かずます・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)といった重役クラスの武将はみな遠征で遠くにいる。
そして信長はわずかな供回りで本能寺に滞在。
今をおいて信長を討つときはなし!

 

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「魔が差しちゃった」んでござるよ。
既存の権威を認めない信長。自己を神格化して天皇以上の権威を得ようとしていたという説もあるくらいなので、このまま信長が天下を取った時の不安と恐怖もあったのではないでしょうか。

 

敵は本能寺にあり!

 

本来は秀吉の援軍に向かうはずの兵を、本能寺へと向けさせた。

 

本能寺にはたった100人足らずの兵しかいないのに対し、明智軍は1万3千!
そのうちの3,000の兵で本能寺を取り囲む。

 

外の喧噪に目を覚ます信長。
小姓を呼び、物見に行かせる。
「明智が者と見え申しそうろう」と小姓が報告すると
「是非に及ばず」
と一言いい、弓をもち、押し寄せる明智勢を討ち、弦が切れると槍を持ち応戦。
しかし肘に傷を負い、槍が持てなくなると内に入り、火を放ち自害した。
信長の遺体は見つからなかった。
二条城にいた息子の織田信忠も討ち死にした。

 

その頃、羽柴秀吉は備中高松城(岡山県)を水攻めしていた。

 

城を囲むように堤防を作り、川の流れをそこへ引き込み、城を水浸しにしてしまうという戦法である。
水は城内まで浸水し、食料の補給路を断たれ、援軍は来られない。そんな状態で備中高松城の降伏は間近であった。
そんな時である。
主の織田信長が亡くなったという報せを聞いたのは。

 

秀吉も驚いたでござろう。いやただ驚くだけの話ではなく、この事が敵に知られようなら、墜ちようとしていた城は息を吹き返し、西の毛利と東の明智勢に挟まれて、秀吉軍は全滅しかねないほどのピンチの状態になったということでもござった。

 

秀吉は道を徹底的に封鎖し情報が毛利勢に届かないようにし、和睦の条件として備中高松城の清水宗治(むねはる)の切腹を急ぎとりまとめた。
毛利軍との和睦が成立すると、秀吉軍は急ぎ京へ向かって引き返した。
これが世に言う『中国大返し』
備中高松城から京の山崎まで距離にして約235キロを8日程度(日数はいくつか説がある)で踏破したのである。

 

なんだ、1日30キロ程度じゃないか、と思った人もいるでござろう。
甘いでござる。

平均だと30キロでござるが、日によってかなりバラツキがあるようで、最長では1日70キロ走ったそうでござる。
そしてまず、足軽のみなさんは鎧を着ている。あるいは担いでいるのでござるよ。裸のまま戦場に行くわけにはいかないでござるからな。
そして今みたいに走りやすい靴を履いているわけではないでござる。草履とかでござったのであろう。
さらには道だって現代みたいにアスファルトで綺麗に整備せれているわけでなく、凸凹した土のやら砂利やらの道でござったのだろう。
もっといえば途中は天候が荒れて暴風雨になった日もあったそうな。
そしてそれを、二万以上の軍勢で達成させたのでござる。
これは少なくとも、当時の日本においては信じがたいほどの進軍速度の強行軍でござった。

 

でも一番驚くべきはやはり、秀吉の行動の早さでござろうな
あまりに早すぎて、本能寺の変が起こるのを知っていたんじゃないかと疑われるレベルの早さである。
信長が死んで最終的に一番得をしたのは秀吉であったから、秀吉黒幕説などという説も流れるくらいであった。

 

何はともあれ、6月13日。山崎に陣を張った秀吉。
まさかこんなに早く秀吉が戻ってくるとは夢にも思っていなかったであろう明智光秀。

 

明智光秀は信長を討った後、各地に自分を味方するように手紙などを出していたが、どうも動きに精彩を欠いていた。
秀吉軍約3~4万に対して、明智軍1万6千。
軍勢を集める間もなく、たった3時間で明智軍は壊滅。明智光秀は落ち延びる途中に落ち武者狩りに遭って死亡(別の説も有り)

 

『三日天下』という言葉はこの明智光秀からきているが、実際は10日と数日の天下で幕を閉じたのでござった。

 

にんにん。