面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

関ヶ原の合戦(西暦1600年10月21日)PartⅢ 小山評定

前回の続きでござる。

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上杉討伐のためにわずかな守備を残して東に向かった徳川家康たち。


いまならば東西から家康を挟み撃ちに出来る!
と佐和山城(滋賀県)に謹慎中だった石田三成はこの機を逃さず挙兵に踏み切った。
 

 

石田三成と上杉家家老の直江兼続は仲が良かったので、これは二人が共謀した作戦であるという説もあるが、実際のところはわからないでござる。
おそらく、共謀であったとしても綿密な計画ではなかったとは思われる。

 
 
まず石田三成は昔からの友で、東軍に加わる予定だった大谷吉継(よしつぐ)を仲間に引き入れた。
また三成自身は近江(滋賀県)で19万石の元いち奉行でしかないので、五大老のひとり、毛利輝元(てるもと)を西軍の総大将として参戦してもらうことに成功。

毛利輝元はあの三本の矢で有名な毛利元就(もとなり)の孫で、中国地方で112万石を有する大大名でござる。


その後三成は関所を封鎖し、これ以上諸大名が東軍に加わらないようにし、また諸大名の妻子を人質として大阪城に閉じ込めたが、東軍の有力大名である加藤清正や黒田長政の妻には逃げられ、細川忠興(ただおき)の妻、細川ガラシャ(ガラシャはキリスト教の洗礼名)には自宅に火をかけ自害するなど壮絶な最期をとげられ、三成は人質作戦を中止したのでござった。
 
総大将の毛利家の他には、もうひとりの五大老・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)や、四国の長宗我部(ちょうそかべ)、九州の島津などの大名を味方につけ、最終的には十万もの軍勢を集めることができたのでござる。


まずは前哨戦でと、三成たちは東軍の鳥居元忠(とりい もとただ)が守っている伏見城を攻めた。
伏見城にはたった1,800人しか守備兵がおらず、そこに4万もの大軍で攻めたのでござる。
伏見城は豊臣秀吉が建てた名城ではあるが、これだけの戦力差があればすぐに攻め落とせて当然なのであるが、結果としては落とすのに10日もかかったのでござる。
鳥居元忠の奮戦があったとはいえ、西軍のモチベーションの低さと連携の悪さが見える一幕でござった。



さて一方、上杉討伐へと向かっていた家康側はと言うと...



三成挙兵、伏見城落城の報を聞き、1600年7月25日徳川家康は下野小山(群馬県)で諸大名を集めて会議を行ったのでござる。
コレが世に言う『小山評定』(おやまひょうじょう)と呼ばれる会議でござる。
この会議で現在の大阪の状態を説明し、妻子が人質となっているため各々の進展は自由である。西軍につきたいのなら道中の安全は保証する、と家康は約束をした。

なぜ、家康はそのようなことを言い出したのか。
五大老筆頭の家康が命令すればそうそう逆らえない。無理矢理にでも全員従えさせることは出来たであろうに。

それは、家康は上杉討伐の大将であるとはいえ、付き従っている諸大名は決して家康の家臣というわけではなく、無理に命令をすれば嫌々付き従う者が出てくるであろう。下手をすれば妻子のことが不安で西軍に内通して裏切る者が出てくるかもしれない。
家康としては「三成許すまじ」という気持ちで団結してもらう必要があったのでござる。
 
西軍についてもよいという家康の意向を伝えると、武将のひとり福島正則(まさのり)は立ち上がり、「残してきた妻子を犠牲にしてでも石田三成を討伐する!」 と言い放った。その言葉に続きみな賛成の意を表明したのでござる。
 
命令で無理に従わせるのと、自分から従うと決めるのとでは心の持ちようはまるで違うというのは言うまでもないこと。
この辺りのマネージメントのうまさは三成とは人生経験の差が出るでござる。
 
ちなみに真っ先に従うと言った福島正則には、会議の前に友人である黒田長政を通じてそう発言するようにと言い含めていたそうでござる。
さすが狸親父の家康様でござるな。
 
 
さてこの会議で山内一豊(やまのうち かずとよ)という武将は、自分の城である掛川城(静岡県)と領地を家康に提供すると言い出したのである。それを聞き、他の武将もぞくぞくと同じように城を提供し始めた。
山内一豊は妻の「千代」のほうが有名で特に頭が良いわけでもなく武功に優れているわけでもないのだが、この一事で関ヶ原の合戦後、掛川五万石から土佐二十四万石が与えられ、一挙に五倍の領地を手に入れたのでござる。
 
 
この会議により一致団結した東軍は、一部の軍勢を上杉討伐へと向かわせ、家康自身は本拠地である江戸に戻り、そして他の諸将を西へと反転させたのでござった。
 
 
さてさて、次はとうとう関ヶ原の戦い本戦となるのでござるが、ここでちょっと疑問が残るのでござる。
なぜ家康は少ない軍勢しか残さず上杉討伐へと向かったのでござろうか。

明確な資料はないでござるが、家康は三成(あるいは他の誰か)が挙兵するのを予想していた。いや、挙兵するようにわざと少ない軍勢しか残さなかったと思うのでござる。

ここで三成が挙兵し反徳川勢を集めさせ、それを叩けば徳川と敵対しようという大名を一掃することができるのでござるから。
だれも挙兵しなければ、そのまま上杉を叩けば良し、挙兵したら反徳川勢を一掃する。そう考えていたと思われるでござる。

ただ、三成が十万もの兵を集めたのは、さすがの家康公も
 


Σ(゚Д゚;) マジで!?

 

って内心焦ったんじゃないかなぁと思うでござるよ。
 
 
次回最終話『関ヶ原』に続く。にんにん。
 
功名が辻〈1〉 (文春文庫)

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