読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

第二次信長包囲網(1571~72年) ~比叡山延暦地焼き討ち

  前回の続き...

jp-history.hateblo.jp

1570年の信長包囲網の危機を乗り切った信長であるが、15代征夷大将軍足利義昭(よしあき)は相も変わらず各方面へと手紙を送りまっくていたでござる。

翌1571年になってるとまた、浅井朝倉軍・三好三人衆・石山本願寺・延暦寺・六角氏などが反織田勢として動き出す。


しかし信長。前年は浅井長政の予想外の裏切りから後手後手と回って四苦八苦したが、今回は調略なども交えて、しっかりと対策を行った。

浅井長政の重臣を調略し、近江(滋賀県)南部の支配を固めることに成功。
そして北伊勢の長島一向一揆を攻撃。

 
しかしこれには織田軍も苦戦した。
よくある一揆は統制があまりとれていない場合が多いのだが、長島一向一揆では伏兵がおかれたり高い作戦力とゲリラ攻撃で、これには織田軍も苦戦。重臣である柴田勝家が負傷する事態までになり、一時撤退する。

そして1571年 9月、信長は 比叡山延暦寺の焼き討ちを実行するのでござる。
信長の悪行とされているもののひとつで、まぁ1,500~4,000人を焼き殺したといわれているでござる。

当時は信心深いので仏罰などを本気で信じていた時代であるから、寺を焼くなどとんでもない所行でござった。



なんで比叡山延暦寺を焼き討ちすることになったかというと、延暦寺が浅井・朝倉軍をかくまっていたからでござるが、それだけというわけでもないようででござる。

おそらく、信長は寺社勢力というものを徹底的に潰そうと考えていたと思うでござる。

まず、お寺といっても現代みたいな平和なものではなくて、何千人もの僧兵をかかえている武装集団で、その宗教的権威を利用して、傍若無人に振る舞っていたりもしていたのでござる。
もちろん名僧とよべる立派な人もいたでござるが、下級僧兵になると女人禁制のお寺に女よんで酒飲んで肉を食うなどなど「堕落」していたのも多かったらしいでござるよ。


そして大事なのは、その武将集団はかってに道に関所をおいて、通過する人たちから金を徴収していたのでござる。
関所は寺社勢力たちの重要な既得権益なのでござった。
しかし信長はその関所を撤廃しようとしていた。自由な通行と自由な流通。 経済の発展に弊害のある関所など認めるわけにはいかないのが、信長の政策である。

自分たちの権益が犯されるとなれば寺社勢力は信長に反発するだろうし、遅かれ早かれ信長と寺社勢力はぶつかったことでござろう。
しかし信長は焼き討ちの前に何回か降伏勧告はしていたのである。


1571年9月12日。
寺には攻めてこないであろうと高をくくっていた延暦寺僧兵たちも信長が本気で攻めてきたことを知り、黄金などを送って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを断る。

比叡山延暦寺に総攻撃をかけた織田軍。寺を雲霞のごとく焼き払い、 堂塔伽藍はことごとく灰燼と化した。
山にいた僧兵、児童、智者、上人ことごとく殺したという。その数は1500とも、4000とも言われている。


が、しかし、近年の研究では、延暦寺を攻めたのは事実であるが、内容は誇張されているのではないかという説もあるでござる。

発掘調査によれば、このときに焼失した建物は根本中堂と大講堂のみで、出土品も平安時代のものが多く、当時のものはほとんど出なかったそうでござる。
どうやら比叡山焼き討ちのことを資料として残していた人たちはその現場を実際に見ていたわけでなくて、人の噂をもとに書いていたりしているので、信長をディスるために僧兵たちが流した悪い噂を元に書いたのでは、とも考えられるでござるが、はてさて。

ちなみにこの後も、信長と本願寺などの寺社勢力との対立は続くでござるが、信長は寺社勢力が武装して敵対することは一切許さなかったでござるが、その宗派の信仰を禁止することは一切なかったでござる。

1572年
信長は足利義昭に17条からなる詰問文を送る。詰問文というより弾劾状というものでござる。
簡単に言えば、お前は悪将軍だから反省しろっていう内容を長々と記したのでござる。

これによって信長と足利義昭の関係は決定的に亀裂した。
信長ももはや足利将軍の権威はいらないと判断したのだろう。


そしてついに、あの武田信玄が上洛へと向けて動き出す。
武田信玄、三方ヶ原で徳川軍を破る。
のちの天下人である徳川家康を赤子の手をひねるように簡単に撃破した武田信玄!
信長の命運もここまでだ、と足利義昭は二条城で挙兵。
信長は息子を人質として足利義昭に和睦を申し入れたが、足利義昭はこれを拒否。徹底抗戦のかまえでござる。


が、しかし、である。
このまま上洛して織田を京から追い払うであろうと思われた武田信玄は、途中で病没してしまう。

信玄が死んでしまっていたことを知らずに足利義昭は抵抗を続けるが、腹心だった部下の多くは信長側につき、織田の大軍に囲まれ、降伏した。

足利義昭は追放され、ここに室町幕府は滅んだのござる。

さて、信長包囲網の黒幕でもあった足利義昭もいなくなったし、これで一安心。
と思いきや、中国地方の毛利に身を寄せた足利義昭は、まだ懲りずに 信長包囲網を再構築させていくのでござった。


第三次信長包囲網につづくでござる。
にんにん。