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面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

第一次信長包囲網(1570年)

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さて、みんな大好き織田信長さん。
天下統一のあと一歩のところで亡くなってしまいましたが、それまでの道筋は決して楽なものではなかったでござる。
 
その信長のもっともピンチといえるものに、信長包囲網というのがあったのでござる。
 
包囲網という名称の通り、四方八方敵に囲まれたのでござるな。
さて、どういう状況かと言うと。

 

足利義昭(よしあき)を15代征夷大将軍にして、京都へ上洛した織田信長。
足利義昭はたいそう信長に感謝して、信長のことを父とよび、室町幕府の副将軍にさせるとまで言ったくらい信長に感謝していた。
 
しかし信長は副将軍の申し出を断る。それでは足利義昭の家臣となってしまうからだ。
信長の目標は天下統一。足利義昭をつれて京都に上洛したのは、けっして足利幕府を再興させるためではなかったのでござる。
 
最初は感謝していた足利義昭も、やがておかしいと気づき始める。
そうこうしているうちに、信長から足利義昭に9箇条、のちに5箇条追加されて14箇条の約束事を取り決められた。
 
最初の9条はまだしも、後から追加された5条には
 
・諸国の大名に手紙を出すときは信長に知らせて、信長の書状も追加しろ
・これまで諸大名に出した義昭の命令は全て無効。
・恩賞などは全て信長の領地から都合する
・政治は信長に任せたのだから、信長は誰に従うことなく、信長の意思で成敗する
・宮中に関わる儀式などはちゃんとやってくれ
 
これはもう完全に、足利義昭など飾り物に過ぎない、といっているようなものである
 
当然、信長と足利義昭は不仲となった。が、決定的な対立にはならなかった。
なぜかといえば、15代将軍になったとはいえ、足利義昭には自分の兵というものがないからである。あからさまに対立したら簡単に信長に殺されるか追放されるかするだけである。
 
 
なので足利義昭には諸大名に手紙をだしまくった。
信長を討て、と。
約定では禁止されているので、もちろんこっそりとだ。
 
 
1570年、信長は上洛の命令を無視する朝倉義景(よしかげ)を討つために、越前(福井県)に出兵した。
越前にいくには近江(滋賀県)を通らなければならないが、近江を治めているのは、信長の義弟にあたる浅井長政なので、織田と徳川の連合軍はなんの不安もなく越前へと向かった。
 
その、浅井長政が裏切った。
 

朝倉軍と浅井軍に挟撃される危機におちいった信長は即座に撤退を開始。ごくわずかな供だけをつれ信長は命からがら岐阜まで逃げのびたのでござる。
 
 
浅井長政が信長を裏切った理由はいくつか説があるが、そのひとつに足利義昭から信長を裏切るようにとの書状が届いたから、という説もある。書状など残っていないから真偽はわからないでござるが。
 
 
岐阜に逃げ帰った信長はその復讐とばかりに浅井・朝倉を攻め(姉川の戦い)、織田・徳川連合軍は勝利するも城を落とすまでにはいたらず、そうこうしているうちに、足利義昭の書状は各方面へと届いていった。
 
 
摂津(せっつ・兵庫県あたり)で三好三人衆が挙兵。
これを討つべく遠征している最中に、石山本願寺が挙兵。
これらの対応に追われているうちに、浅井・朝倉軍が琵琶湖を南下。
さらには石山本願寺の法主である顕如(けんにょ)の命令で、伊勢の門徒が一揆を起こした(長島一向一揆
そして比叡山延暦寺も浅井・朝倉軍をかくまい、信長と対立。
 
北・西・南から攻められて、さすがの信長も青ざめる思いだったのではなかろうか。
このまま京都を取られてしまったら、苦心して京まで上洛した経緯が全て水の泡。岐阜あるいは出身地である尾張まで勢力は縮小してしまうかもしれないのでござる。
 
各方面で織田軍劣勢のなか、重臣の森可成は死亡。信長の弟の織田信治・信興も討たれてしまう。
 
苦しい状況の中、信長は朝廷や将軍の権威を借りて各方面と和睦するようにしむける。
1970年11月には本願寺や三好三人衆との和睦に成功。12月には浅井・朝倉とも和睦した。
 
 
せっかく信長を追い詰めているのになんで和睦してしまうのか!と思えなくもないでござるが、それぞれの勢力は連携しているわけではなく、バラバラで動いていたというのと、北陸に居を構える朝倉は雪が降ると帰れなくなってしまうから、といった理由があったのでござろうな。
 
 
何はともあれ、ひとまず脅威をしのいだ信長である。
1570年は信長にとって最悪と思えた年でござろう。
 
が翌年、より強力な第二次信長包囲網が始まるのでござった。
戦国最強といわれる、武田信玄が上洛に動き出したのだ。
 
にんにん