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面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

川中島の戦い(旧暦1560年9月10日)

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かたや天才的な戦略で軍神の名を欲しいまました上杉謙信
かたや緻密な計画と調略で、その生涯負け戦がほとんどないと言われる武田信玄


戦国武将でも最も有名なこの二人が直接的に戦った唯一の合戦がこの「川中島の戦い」でござる。
 

 


川中島の戦いは有名であるが、実際には五回行われているでござる。
ただし通常「川中島の戦い」と言ったら四回目のときのことをさし、この第四次合戦のとき以外はほとんどがにらみ合いか小競り合いで、大きな合戦は行われてはいないでござるよ。



川中島は信濃(長野県)北部の、千曲(ちくま)川と犀(さい)川が合流する三角地帯でござる。


上杉謙信(当時は上杉景虎)は関東の北条を攻めていたが小田原城の守りは堅く、そして北条は同盟国である甲斐(山梨県)の武田信玄に援軍を要請。武田信玄はそれに応え、川中島に海津城を築き、上杉謙信の背後を脅かした。


武田が北信濃にちょっかいを出してきたため、謙信もそれを放置するわけにはいかず関東から撤退。途中、上杉謙信(景虎)は関東管領就任の儀式を行うために鎌倉の鶴岡八幡宮へ立ち寄り、名を上杉政虎と改めた。
 
 
8月15日。
13,000の兵を率いて 越後の春日山城を出陣した謙信は、川中島の南にある妻女山(さいじょさん)という山に布陣した。
謙信出兵の報せを聞いた信玄は、約20,000の兵で出陣。8月24日に妻女山から北西にある茶臼山に陣取り、妻女山を囲むように兵を配置し、謙信の退路を断つように布陣した。

逃げ道をふさがれ動揺する上杉軍。このままでは本城である春日山城が落とされてしまうと。
部下の動揺に対して謙信は
「信玄が越後を攻めるというなら、こちらは甲斐を攻めるまでのこと」と余裕綽々で言って部下を安心させたそうでござる。
 


8月29日。
妻女山を囲んでも一向に上杉軍の士気が落ちる様子がないことから、これ以上の対峙は無用と、信玄は妻女山の北東にある海津城へと移動した。
海津城は妻女山から目と鼻の先である、約1.5キロしか離れていなかった。
 

 
9月8日
戦況は膠着状態となる。
このままでは兵の士気が落ちる、と山本勘助(かんすけ)は信玄にとある戦略を提案する。

その戦法とは、深夜こっそりと一部の兵を海津城から出して、上杉軍に気付かれないように妻女山の後ろに回り込む。
翌朝、背後から上杉軍を襲撃し、おどろき慌てた謙信と上杉軍は妻女山から北に向かって逃走する。
そこへ、信玄様本陣が待ち構えて、前と後ろから上杉軍を挟撃。そして殲滅!
という戦法でござった。
啄木鳥(きつつき)がくちばしで木を叩き、驚いて出てきた虫を食べることに似ていることから『啄木鳥戦法』と名付けたそうでござる。
その戦略を採用する信玄。
 


9月10日。午前1時頃。
武田軍は高坂弾正や真田幸隆(ゆきたか・真田幸村の祖父)などに率いられたた12,000の軍でひっそりと海津城を出立。
奇襲をかけるべく、山の尾根をつたい妻女山の背後へと向かった。
 
 

9月10日。午前7時頃
妻女山のわきへと到達した武田別働隊は背後から上杉軍襲う。
 


しかし、そこにはわずか100名の兵士がいるだけで、上杉謙信はいなかった!
 
 
 
前日9月9日の8時頃。
妻女山から海津城を見下ろしていた謙信は、普段より炊煙がいつになく多いことに気づく。
炊煙とはご飯を炊くときにでる煙のことでござるな。
そのことから謙信は夜襲を察知。
 
夜の11時頃にひっそりと妻女山を降り、千曲川を渡り、海津城の西側にある八幡原(はちまんばら)に向かったのでござる。
 
 
9月10日。午前5時頃。
『啄木鳥(きつつき)戦法』により妻女山から追い出された上杉軍を挟み撃ちにするべく、武田本軍約8,000が海津城を出た。
その日は深い霧におおわれ、わずかな先も見えないほどでござった。
そう。少し先に上杉軍がいるのに、武田軍は気づくことがなかったのでござる。
 
 
9月10日。午前6時過ぎ頃。
信玄。霧の中で人馬の音がすることに不審に思い偵察を出す。
そこで、目の前に上杉軍がいることに気づいたのござる。
慌てた武田軍はすぐに陣形を整えた。鶴翼の陣だったと言われている。
信玄を中心に横長で鶴が翼を広げたような陣形で、中央に来た敵を翼を包むように包囲することができる。
 
それに対し上杉軍は車縣の陣(くるまがかり)で武田軍に向かった。
車縣の陣とは、上杉謙信本陣を中心に円形で隊を組み、風車のように回転しながら攻める陣形でござる。
回転することで、最初の部隊が敵に当たり、それが一旦引くとまた新しい部隊で敵に当たる。
敵側としては常に新しい部隊を相手にしなければならなく、また最初の部隊は次に回ってくるまで休めるという具合である。
 
 
9月10日。午前7時半頃。
濃霧のため陣形がすぐに整わない武田軍に上杉軍は攻めかけた。
 
妻女山に向かった武田別働隊は、謙信に裏をかかれたことに気づき、すぐさま妻女山を降り八番原に急行しようとするが、上杉別働隊の甘粕(あまかす)隊に邪魔をされ、すぐには迎えなかった。
 

9月10日。午前8時半頃。
霧は晴れ、上杉軍は浮き足立つ武田軍に猛攻撃をかける。
 
謙信としては、武田別働隊が戻ってくる前に決着をつけなければならなかった。
武田別働隊が戻ってきたら、上杉軍が挟み撃ちになってしまうからだ。
 
この上杉の猛攻撃により、
信玄が頼りにしていた弟、武田信繁(のぶしげ)が討ち死に。
信玄の軍師とも言われ「啄木鳥戦法」を立案した山本勘助。討ち死に。
その他、何人かの重臣が討ち死にした。
 
乱戦につぐ乱戦で、武田本陣が手薄になったとみた謙信は、単騎信玄の元へと向かい、本陣で座っている信玄に馬上から三太刀あびせたが、信玄は軍配でそれを防いだ。
 
川中島の戦いでの有名な謙信と信玄の対決シーンでござるが、話が出来すぎているので後世の創作と考えられてる。
 が、しかし、毘沙門天の化身と称する上杉謙信は最前線に出て戦うことも辞さないタイプの戦国大名であり、またこの合戦では謙信自ら刀を振るって戦ったという資料もあり、短時間で武田軍を破らなければならないこの状況なら、もしかしたらあり得たかもしれないとも思える一幕でござる。
 
9月10日。午前10時頃。
信玄の本陣まで危うくなってきたその時、ついに、甘粕隊を蹴散らした武田別働隊12,000が妻女山から戻ってきた!
 

(´∇`) ホッとする信玄

( ̄- ̄メ)チッ  と歯噛みする謙信
 
 
立場は逆転する。
陣形を立て直した本陣と、武田別働隊で今度は上杉勢を挟撃。
さすがの軍神上杉謙信もこの状況から逆転の目をつむぎ出すことはできず、越後春日山城へと退却していったのでござる。
 
 
さてさて、この武田信玄と上杉謙信の唯一の直接対決、第四次川中島の合戦。別名、八幡原の戦いの勝者はどちらだったのか。
「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」
とよく言われているでござる。前半の猛攻で武田方は信玄の弟、武田信繁など幾人の重臣を失い、兵の死者は約4,000。
一方上杉方は名だたる重臣の討ち死にはなく、兵の死者は約3,000。
しかし最終的には上杉側が退却。北信濃の支配権は武田信玄のものとなったので、やはり戦略的には武田氏の勝ちと言えるでござろう。
 
 
 
 
……
 
 
………
 

と、ここまで書いたことを否定するようでござるが、実際のところの川中島の合戦の内実はよくわかってはいないのでござる…
 
川中島の戦いは『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』という江戸時代初期に書かれた書物に詳しくあるのだが、合戦らの記述の誤りも数多いことから、資料の価値としては低くみられているのでござる。

また信玄の軍師として登場する山本勘助も、同名の足軽大将がいたことは事実のようであるが、軍師のような立場で書かれているのはこの『甲陽軍鑑』のみであり、山本勘助の子孫の覚書が底本になっているとかなんとか色々な説が入り乱れてるのでござる。
 
ただ、『甲陽軍鑑』での川中島の合戦の内容がどこまで正しいのかははっきりとはしないでござるが 、この時期に八幡原で戦国時代での最大級の合戦があったのは事実でござる。
 
にんにん。

武田信玄 風の巻

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天と地と(一)<天と地と> (角川文庫)

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