面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

関ヶ原の合戦(西暦1600年10月21日)PartⅣ 関ヶ原

前回からの続き

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石田三成挙兵の報を聞き、小山評定を経て東軍の諸将は、三成討伐に西へと向かったでござる。

 
家康は息子の徳川秀忠(ひでただ)に約3万8,000の軍勢を付けて中山道(なかせんどう)を進ませた。中山道は群馬や長野などを通る山側の道でござる。こちらには徳川直属の部隊を多く含ませた徳川軍主力でござる。

 


なぜ主力を中山道から行かせたかというと、こっちの街道側には反徳川の領地などがあったのでそれを潰しながら進軍するためでござる。小勢とはいえ放っておいて背後から突かれたり、江戸を攻められたらたまったものではないでござるからな。
それ以外の多くの諸大名は東海道を進んで西へとむかった。

こうして上杉討伐軍を除いてみんな上方に行ったかというと、総大将の徳川家康自身は江戸に戻り、そこから全く動かなかった。


東海道から西に向かった諸将が清洲城(愛知県)に着いても家康からはなんの音沙汰もない。
激情家である福島正則などは「自分たちを捨石にするのか!」と激怒する始末。

総大将がいないまま敵地に近づいて諸将の間に不安がひろがってきた。
そんなとき、家康からの一通の書状が届いた。
そこには
「おのおのが岐阜城を攻め始めれば、出馬する」
それを読んだ福島正則は「内府殿(家康のこと)はまだ我らを疑っているのか!」

と勇んで織田秀信が守る岐阜城をたった一日で攻め落とした。
伏見城に十日もかけた西軍とはえらい違いである。


ちなみに岐阜城を守っていた織田秀信は、あの織田信長の孫にござる。



さて、この動かない間家康は何をしていたかというと、ひたすら手紙を書いていたようでござるな。ざっと200通。
情報の収集から行動の指示、友好や裏切りの手配などなど、現代のように電話やインターネットで一発というわけにはいかないので、二ヶ月近くかけて手紙を書きまくった。情報戦はもう始まっているのである。


岐阜城が落ちた知らせをきくと、家康は10月7日(旧暦:9月1日)に約3万3千の兵で出陣。
10月20日(旧暦:9月14日)、家康軍は美濃(岐阜県)の岡山に入る。

21日には、中山道を進んだ徳川秀忠軍と合流する予定でござったが、秀忠軍はたった2,000の兵士しかいない上田(長野県)で一週間近くも足止めをくらったてのでござる。この上田城を守っていたのは真田昌幸(まさゆき)。あの有名な真田幸村(ゆきむら)の父でござる。そして結局、秀忠軍3万8,000は関ヶ原の戦いには間に合わなくて、後々家康から大目玉をくらうのでござる。
上田城の戦いはまた別の機会に書きたいでござるな。
 
 
10月21日(旧暦:9月15日)、西軍・東軍の両軍は関ヶ原にて対峙する。
西軍は約八万の軍勢。東軍は、本来なら息子の秀忠が到着すれば十万になるはずであったが、未到着なため約七万。
決戦の朝は濃霧が立ちこめ、お互いが全く見えない状態であった。
 
午前八時、東軍の井伊直政隊の抜け駆けで決戦がはじまった。
 
西軍は寄せ集めの感があり、日和見な武将が多く、八万の軍勢があっても実質三万くらいしか動かなかった。
しかし五大老のひとり宇喜多秀家隊の大奮戦や、倍以上の敵と対峙した大谷吉継や石田三成の奮闘によって互角、あるいはそれ以上の成果あげていた。
家康本陣の三万は戦闘には参加していなかったが、状況に見かねた家康は本陣を最前線近くまで進ませた。
 
ここで東軍の背後に布陣していた毛利隊や、宇喜多秀家に次ぐ戦力をもっていた小早川秀秋が動けば、西軍の勝利もあり得たのでござる。
 
西軍総大将の毛利輝元は大阪城にいたので、毛利軍は輝元のいとこである毛利秀元が参戦していた。
しかしその毛利隊の前に布陣していた吉川広家(きっかわ ひろいえ)は家康に内応済みであり、一歩も動かなかった。
吉川広家の裏切りは明らかになったが毛利と吉川は親戚筋であり、これを攻めるわけにもいかず結局毛利隊は動けず、またその後ろにいた四国の長宗我部も最後まで動くことができなかった。
 
そして一万五千もの兵をもっていた小早川秀秋にも家康は内応の手を回していたのでござる。
ただ、小早川秀秋は迷っていた。
本来ならば小早川隊は西軍を裏切って、東軍について西軍を攻める約束を家康としていたのだが、しかし西軍の思いの他の好戦に小早川はどちらにも動かなかったのでござる。
石田三成は何度も小早川秀秋に参戦するよう使者を出す。のらりくらりと返事する小早川秀秋であった。
 
 
 
時間も正午になり、戦況は一進一退。
 
 
 
そこで、業を煮やした徳川家康は、小早川秀秋隊が布陣している松尾山に向かって鉄砲を撃ちかけたのでござる。
 
 
ここで裏切らなければお前は敵だ、と。
 
 
 
もしも、である。
ここで小早川秀明が怒って西軍側についてしまったら、東軍はかなりピンチになったであろう。負け戦になる可能性すらあり得た。


それでも鉄砲を打ち、恫喝する家康。
 
 
小早川秀秋が小心者であるということを見越した上での恫喝でござろうが、それが出来る家康と、催促しか出来ない三成との器の違いなのかもしれないでござるな。
 
 
結果、西軍を裏切った小早川秀明により、大谷吉継隊は壊滅。大谷吉継は自害する。
 
宇喜多隊はしばらく持ちこたえていたが、東軍本陣も攻め始め三倍以上の相手に壊滅。
宇喜多秀家は「金吾(秀秋のこと)と刺し違える」と激怒したが、家臣に諭され敗走。
 
石田三成軍も東軍の総攻撃に粘ったものの有力な重臣は討ち死にし、三成は逃走した。
 
 
これによって天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いは半日にして終わったのでござる。
 
にんにん。

 

決戦!関ヶ原

決戦!関ヶ原

  • 作者: 葉室麟,冲方丁,伊東潤,上田秀人,天野純希,矢野隆,吉川永青
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