面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

関ヶ原の合戦(西暦1600年10月21日)PartⅡ 直江状

前回の続きでござる。

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さぁて、加賀前田家には逃げられた徳川家康の次のターゲットは、会津120万石の上杉景勝(かげかつ)。


上杉景勝は、あの武田信玄のライバルであり越後の虎と恐れられた上杉謙信(けんしん)の甥であり、養子となって家督を継いだ人物でござる。

 

この上杉景勝という人物もなかなか不思議な人で、感情を表に出すことが滅多になく、もの凄く無口でほとんど喋らなかったそうでござる。噂では生涯で笑ったのは一度きりとか、直属の家臣でさえ景勝の声を聞かない日のほうが多いとか、そんな噂が囁かれるほど無口でござった。

なので上杉景勝がバカだったのか、それとも頭が良い人物なのか当時も今もよく分からないのでござる。

人は話すことで何を考えているのかが分かり、そして頭の良し悪しもわかる。
そして話したことは人づてに伝わって、それが記録に残ったりもする。
しかし上杉景勝は全然喋らないし文章も残していないから、彼が何を考えていたのかは、本当に側近の数名くらいしか知らないしわからないのである。

上杉家は戦国時代を最後まで生き残ったのだからバカではないと思われるが、しかしそれは家臣がしっかりしていたおかげかもしれず、上杉景勝自身がどうだったのかは、もはや誰にもわからないのでござる。にんともかんとも。


閑話休題。


さて、上杉景勝はそのときは自国の会津にいて、街の整備や城の増強を行っていた。
そのことを知った徳川家康は景勝に、なぜ勝手に城の改修をしているのだ、謀反する気ではないか、説明しに上洛して来い、と言ってきた。
しかし上杉家は、城普請の許可はちゃんと取ってあったのでござる。まぁ家康の難癖でござるな。

それに対し上杉家は上洛はせずに、家老の直江兼続(なおえ かねつぐ)が書いた書状を家康の元に送った。これが有名な直江状と呼ばれるものでござる。


その内容は


会津には一昨年国替えになったばかりで、今年九月に帰国したばかりなのに一月に上洛しろとは、いつ政務をとったらいいんですかね。
それに会津は雪国だから、十月~二月までは何もできませんよ。会津出身の人に聞けばわかりますよ。それくらい。

秀吉様いらい景勝が律儀者であることは家康様もご存じですよね。それは今も変わりませんよ。世の中の変化は激しいですがね。(家康の変化の当てつけ)

前田利長殿のことは家康様の思う通りになりましたね。さすが家康様の御威光は凄いことですな。

景勝は謀反を起こす気など全くありませんよ。それを訴え出た者を調べないでそんなこと言われてもしょうがないですな。まずは訴え出た者を調べるのが当然ですよね? それをしないのなら家康様が謀反を企んでるんじゃないですか?

武具を集めてると仰いますが、都の武士は茶器などの人をたらすための道具を集めますが、田舎武士は鉄砲や弓などの武具を集めます。それはその国の風習ですから、不審なことはありません。景勝に似合わないことをしているわけではないので、そんなことを気にするのは世の中からズレてますよ。

景勝に逆心があるとか、隣国で会津が攻めてくると言いふらして軍備を整えるのは愚か者がやってることです。相手にしないでください。



などなど、少々意訳がはいってござるが、こんな感じでまぁ天下人にいま一番近いであろう家康様を小馬鹿にした内容の書状を送ったわけでござる。


ただこの有名な直江状も現存はしていなく写本しか残ってないので、偽書であるとか、後世に大幅に加筆修正されたのではないかという説もござるが、直江兼続の書状で徳川家康が激怒したことは事実のようでござる。


怒り心頭の家康は、すぐさま上杉征伐を開始しはじめた。


そして徳川軍が出立したところであの男、石田三成が立ち上がったのでござる!


続きは次回で……にんにん

謀将 直江兼続(上)<謀将 直江兼続> (角川文庫)

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