面白日本の合戦史

歴史が好きではない人でもわかる!日本の合戦を面白くご紹介

関ヶ原の合戦(西暦1600年10月21日)PartⅠ

天下分け目の決戦、として最も有名な合戦の一つでござろう。
東軍・徳川家康と西軍・石田三成の合戦である。



そもそも、なぜ250万石の大大名である徳川家康と、19万石しかない石田三成が戦うこととなったのでござろうか。

簡単にお話したいと思うでござる。

 

天下を統一した豊臣秀吉の死後、その後を継いだのは息子の豊臣秀頼(ひでより)。しかし秀頼はまだ5歳。
とても政治ができる年齢ではないので、実際の政治は五大老とよばれる五人の有力大名が行っていたのでござる。



その五大老の筆頭が徳川家康
関東250万石を保持する、豊臣秀吉亡き後の最高実力者でござる。



家康は天下が欲しかった。いまやそれを担うだけの実力もある。


しかし、主君である豊臣秀頼に謀反を起こすわけにもいかない。そんなことをしたら家康が悪者となってしまう。
それに豊臣秀吉に恩を感じている武将もまだまだ多い。徳川家康としては、なんとかして豊臣家恩顧の武将たちを分断させて合戦にもちこまないと天下はとれなかったのでござる。


そこで家康が目を付けたのが、五奉行のひとり石田三成


石田三成は頭は切れるが奉行という官僚職なので、武断派の武士たちには嫌われていて仲が悪い。
また三成は正義感が強く潔癖なところもあるので、豊臣家を倒して天下を望もうとしている家康を毛嫌いしていた。
徳川家康はそこを利用したのでござる。

文治派(石田三成などの奉行達)と武断派(加藤清正・福島正則などの猪武者)の対立を煽り、武断派を自分の味方につけ、豊臣家を派閥争いで内部分裂させていったのでござる。


そして、五大老の中でも家康に次ぐ実力者であり、この派閥争いをなんとか仲裁していた加賀100万石の前田利家が亡くなると、武断派たちは石田三成の屋敷を襲う計画を立てたのでござる。


危険を察知した石田三成は、なんと敵の大将ともいえる家康の屋敷へ単身で逃げ込んだのでござる!
武断派たちもその頭領とも言える家康の屋敷に押し入るわけにもいかず、また助けを求めてきた三成を殺すなど肝の小さいことを家康がやるはずがないという三成の計算からであった。
そして家康は三成の思惑通りこの騒動の仲裁を買って出たのでござった。


……と、三成と家康の駆け引きが面白い有名なエピソードでござるが、これは後生の創作のようでござる。
三成襲撃事件は事実でござるが、実際には三成は伏見の自分の屋敷へと逃げたようでござる。にんにん。

とりあえず伏見に逃げ難は逃れたものの、三成は責任を取らされ奉行職を解任。佐和山城(滋賀県彦根市)に蟄居させられたのでござる。



さて、武断派を味方につけ小うるさい石田三成を蟄居さた家康は、ひと戦をしてより自分の権力を強化しようとたくらむ。


まず標的にしたのが、前田利家が亡くなったばかりの加賀である。
前田利長(としなが・利家の息子)が家康を暗殺するというという噂が、どこからともなく流れてきたのでござる。
いろいろな説があるが、情報の出所は不明でござる。
もういかにも100万石の前田家を潰すための自作自演臭がぷんぷんでござる。


あらぬ疑いをかけらえた前田利長は徹底抗戦を主張するものの、前田利家の妻であり利長の母であるまつ(芳春院・ほうしゅんいん)は自ら人質となって江戸に下っていった。
まさか現当主の母親であるまつが人質になるとは思っていなかった家康は、さすがにこれ以上ごり押しするわけにもいかず加賀討伐は中止された。


そしてその後に家康が目を付けたのが会津120万石を所有する五大老のひとり、上杉景勝(かげかつ)である。



続きは次回で……にんにん

 

 

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

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